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海霧の中に隠された高層湿原

 海面上に薄い円盤を置いたような、平らで横に長い島影が印象的なユルリ島。台地の上に建てられた「緩島灯台」が放つ光も、それを遮る起伏が一切ないために周囲すべての方向にあまねく届き、沖を行く船にとって貴重な道しるべとなります。対岸の半島から見る人の目にも、とりわけ夕暮れや明け方には、この無人島の灯台のかすかな光は詩的な美しさを閃かせて映ります。そしてそんな灯台の足元近くから島の中央部一帯に広がって、この島の植生や地形・地質の特徴を決定づけているのが、なだらかな高層湿原です。

 高層湿原とは植物の遺骸が泥炭となって積み重なり、それが周囲よりも盛り上がるまでになった湿原で、枯れた植物や落ち葉などを分解する微生物が活動できない寒冷な土地や高地、あるいは過湿の場所などに形成されます。周囲よりも高くなっているために水が流れ込むことがなく、それゆえ高層湿原は雨水や雪解け水だけで維持されることになるのが一般的です。ここユルリ島の高層湿原も、起伏のない平坦な土地に広がっているため、湿原目指して流れ込んでくる川などはありません。ただこの湿原の水は雨や雪に加えて、他の高層湿原とはまた違う現象によってももたらされているのです。

 それが海霧です。根室半島周辺では、とりわけ春から夏の終わりにかけては、毎日のように霧が発生します。これは太平洋上の高気圧から流れ込む暖かい空気が、寒流が通過する根室沖の冷たい海水面に触れるために起こる現象で、やや古い資料になりますが昭和22年から26年までの5年間で、根室では849回の霧の発生を見たという報告もあります。年間を通じての発生確率が45%もあるとするなら、なかでも霧が生まれる条件が整う夏場には、毎日が霧といっても大げさではありません。そしてユルリ島も包み込むこの海霧が、湿原を成長させてきたのです。高地で見られることが多い高層湿原が、海抜わずか30~40mほどのユルリ島に広がっているのは、この海霧が運ぶ水によるのです。

 この根室特有の海霧は、根室半島の植生にも大きな影響を及ぼしています。例えば根室半島に点在する湿原ではいくつかの“レリック(遺存種)”を見ることができます。氷河期などに広く分布していたものの、気候が温暖になるとともに高山などに取り残されるようにして根づくだけとなった植物がこう呼ばれるのですが、根室ではそれが低地にも残されているのです。ユルリ島の対岸である落石岬で花をつけるサカイツツジ(境躑躅)などはその代表といえるでしょう。それだけ根室半島一帯の生態系は独特で貴重なのです。もちろんユルリ島にもそれは当てはまります。というよりも、海霧に育まれたユルリ島の高層湿原こそ、そうした貴重な植物の宝庫と呼べるかもしれません。歴史的にも入島者が極めて少なかったユルリ島には北方系の代表的な植物のほとんどが網羅され、その種類は300種を超えるという報告もあります。さらにその中には、ヤチラン(谷地蘭)=絶滅危惧ⅠB類(EN)、ヒメツルコケモモ(姫蔓苔桃)=絶滅危惧Ⅱ類(VU)、ヒメワタスゲ(姫綿萱)、トキソウ(朱鷺草)=いずれも準絶滅危惧(NT)など、環境省レッドリストに収録されている野草も少なくありません。ユルリ島とはいわば、道東の貴重な植物を一つの場所の中に集めた、まれに見る自然の植物園でもあるのでしょう。

 また、ユルリ島の高層湿原に湛えられた清らかな水が恩恵をもたらしているのは、植物だけではありません。ここに集まった水はやがて湿原を発し、ごくわずかな勾配を静かに海に向けて流れ下る幾筋かの沢を形作ります。ユルリの馬たちはこの沢の水で喉を潤し、命をつないでいるのです。隔絶された世界に生きる馬たちにとっても、この高層湿原の水は、まさに命の水なのです。海霧が作り出す奇跡的なまでの微妙なバランスの上にユルリ島はあり、そしてユルリ島の生き物たちもあるのです。ユルリ島は、だからどうしても根室沖にある必要があった。この場所でのみ起こる自然の連環の中に、彼らの生はあるのです。

 今日も島は海霧の向こうに霞んでいます。まさに、幻の島。その幻の中では、誰に知られることもなく高地の花が咲き、そして馬が眠っているのです。



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Yururi Flowers

写真:ねむろ花しのぶ会

 

自然環境保全上の位置づけ

日本の重要湿地500

ユルリ島の中央部にある高層湿原は、2001年に環境省により「日本の重要湿地500」に選定されています。ユルリ島湿原には、環境省が作成したレッドリスト(2020年)に掲載されている絶滅危惧ⅠB類(EN)のヤチラン、カンチスゲなどをはじめ、絶滅危惧Ⅱ類(VU)のヒメツルコケモモ、準絶滅危惧(NT)のヒメワタスゲ、トキソウなど、絶滅が危惧されている希少な植物が数多く生育しています


道自然環境保全地域

ユルリ島は、1976年に北海道の自然環境保全地域に指定されています。道自然環境保全地域とは、国が指定する自然環境保全地域に準ずる土地の区域で、その区域の周辺の自然的社会的諸条件からみて、自然環境を保全することが特に必要な地域に対し、道が北海道自然環境等保全条例に基づき指定しています。道内ではユルリ島をはじめ7箇所が道自然環境保全地域に指定されています

 

5月の花

6月の花

7月の花

8月と9月の花

環境省レッドリストカテゴリー

絶滅(EX)=日本ではすでに絶滅したと考えられる種
野生絶滅(EW)=飼育・栽培下あるいは自然分布域の明らかに外側で野生化した状態でのみ存続している種
絶滅危惧I類(CR+EN)=絶滅の危機に瀕している種
絶滅危惧IA類(CR)=ごく近い将来における野生での絶滅の危険性が極めて高いもの
絶滅危惧IB類(EN)=IA類ほどではないが、近い将来における野生での絶滅の危険性が高いもの
絶滅危惧Ⅱ類(VU)=絶滅の危険が増大している種
準絶滅危惧(NT)=現時点での絶滅危険度は小さいが、生息条件の変化によっては「絶滅危惧」に移行する可能性のある種

※2020年時点での分類

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